シルミノのしるし

シルミノが好きなもの・気になったことに関してノンジャンルで書いていくブログ。

オウム関連事件の刑執行で感じたこと

私、26歳。

地下鉄サリン事件は1995年ということなので私4歳。

はっきり言って、当時の記憶はなく、今読んだ記事からしか判断せざるを得ません。

ただ、今感じたことは確実に、我々の世代……

オウムを知らない世代の感覚の一助にはなると思ったので

少し書きたいと思います。

まあこのブログの流れにはふさわしくないので、続きを読むで隠しておきます

 

 

私は最近まで、死刑について賛成派でした。

人を何人も殺した人が正気になってシャバに戻ってこられるとは思えない。

それが理由でした。

 

それについて疑問を感じたのはEUが死刑を廃止したとき。

犯罪抑止効果がない、人権侵害だ、などとありました。

今回の執行後にも研究対象とすべきだとか記事がありました。

一理あると思いましたが…日本にはそういう機関が存在しないでしょう。

それに20年もあれば大概のことは調査済み、それ以上語ることはないでしょう。

(黙秘も黙秘のままでしょう)

 

それにしても今回の執行は数が多かった。

13人中とはいえ、7人。太平洋戦争のA級戦犯以来というから、なるほどオウム事件A級戦犯7人か、と思いました。(法務省にもその意識はあったでしょう)

しかし多いがゆえ、異常にも感じました。

凄惨な事件を引き起こしているにもかかわらず、です。

遺体はどうするのかというのも問題ですが、

7人を同時処刑したということで、ここにオウムの「神7」が誕生してしまったわけで。

団体への監視・取り締まりは強化せざるを得ないでしょう。

2020年東京五輪、気を付けてください…

 

なんかの記事で読みましたが、オウム真理教小乗仏教の影響を受けていたとのこと。

上座部仏教と言うほうが侮蔑的でなく適切らしいので以降はこちらで書きますが記事中では小乗仏教と記載)

少しだけ調べましたが、大乗仏教(日本の仏教はこっち)は他人の利益も尊重するという考え方で、上座部仏教は「まずは自分」という考えのようです。

他社の意見への寛容さという意味では大乗仏教のほうが優位性がある、というのが大乗仏教側の意見だそうです。

オウムはオウム内の人の立場を上げるために事件を起こしたといってもいいかもしれません。

法治国家では法を破ると立場が下がるんですけどね。

たぶん500年前ぐらいだったら仏教の一派として確立したことでしょう。

 

で、ここからが大事。

「我々は他人に寛容なのか?」

 

大乗仏教を信仰する日本人の数は減っているとは思いますが、

それでも文化的に大きく影響を受けているのは間違いありません。

人にやさしく、One for all, all for oneの精神は重要だと。

 

それなのに、こと犯罪となると他人に厳しくないか?

2人以上殺したら死刑の風潮がありますが、1人でも死刑と主張する人は後を絶ちません。

死刑反対派の記事を読んでも「教祖は死刑賛成」の人は結構います。

犯罪だけならいいですよ。

SNSの炎上や学校・職場でのいじめ、何でもかんでも安倍政権が悪い(地震とか大雨でも)と主張する人も「他人には寛容ではない」ことが原因の一つではないか。

 

それはたびたび「正義」という言葉に置き換わります。

正しくない人を糾弾して何が悪い、ということです。

 

この世界に「正しいこと」が存在するのかという指摘はあると思いますが、

少なくとも法律は「現時点では正しいこと」になりますし、

その時点での倫理観も「現時点では正しいこと」になります。

ただ、倫理観に関しては人によって「ずれる」。

それを許せるのか?

これが我々に問われていることだと思います。

 

正しさについての考え方を異にする人に対して、それを認めるのと矯正するのとではアプローチが180°違います。

許すのか、許さないのか。

それの線引きは法律で決めているわけです。

オウムがやったことは許さない。

それだけです。

 

で、許さないから罰があるわけですが。

死刑って、正しさについての考え方を変えられますか?

無期懲役終身刑なら考え方を改めることもあるかもしれません。

まあ人間、頑固なのでそうそう考えを改めないとは思いますが

考えを矯正することを止めてはいけない。

そう思います。

 

命を削って償えという人。

死って、科学的には脳のたんぱく質が変性して使い物にならなくなるだけなんですが、

「考え方」って口承でも伝わるし死なないんです。

根本要因が脳なのか考え方なのかと言ったら…そりゃ考え方でしょう。

考え方を変えるために厳しい労働をさせたり心理学的アプローチをするのは賛成です。(実際懲役刑はそんな感じでしょう)

人が死んで教えが死ぬことがあるのか。

仏教もキリスト教イスラム教も、死後に広まったことを鑑みれば、答えは自明でしょう。NOです。

 

さて「大乗仏教的な」日本。どうするんだ。

小乗的な考えになっていないか。

真に大乗的になれ。

 

 

私の「考え方」は、

死刑廃止 (日本人が罪に寛容になる一方で、囚人への心理教育プログラムを拡充)

終身刑導入 (寿命まで考え方が変わりそうにないときの予防線)

・寛容の教育を道徳授業などに (他人がやった過ちを必要以上に糾弾しない)

・「寛容」を国民にアピール (教育課程が終わった世代への教育)

・刑期後の社会復帰体制拡充 (公務員とか刑務所とかで雇う)

です。

 

誰かが殺されたとき、そこには考え方の違いがある。

それを少なくとも、法律の範囲内まで持ってくること。

それがこれからの警察・法務省、そして日本人に求められているのだろうと思う。

 

今回、日本国は7人を殺した。

それまでに更生の努力が無かったとまでは言わないが、

考え方の違いを埋められないまま、旧オウム系団体と対峙することになっていくのだ…。